携帯に電話したら
ご主人が出た
彼の声を聞いて察しがついた
「ああ、厚子さんですか」と彼は言った
今まで一度もあったことのない人なのに
優しい親しみのこもった声だった
「今日の早朝、逝きました」
命ある世界に踏みとどまろうとしながらも
少しずつ彼女は
死の世界に足を進めていた
こちらとあちらの世界の
薄い薄い壁の向こうに
半分溶けていくような彼女を
わたしは強引に引っ張り出し
たったおととい
病院の近くのファミリーレストランで
食事をしながら
他愛ない昔話を交わしたのだった
病院の入り口で
その夜さよならを言うときに
どちらからともなく手を差し伸べて
握手した
抱き合ってキスする習慣のない私たちには
精一杯のことだった
命とはしっかりと形あるもので
そんな風に確実に手に握れるものだと
わたしは思い込んでいたが
彼女はただ
強く脈打つ私の手の
温かさを感じたかったのかもしれない
そして
「もう時間だから」と
笑って手を振って
病院のドアのむこうを
振り返らずまっすぐ歩いて行った
それが最後になることを
わかっていながら
もう言葉を交わさなかった
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