Wednesday 24 November 2010

喧嘩のあと

「さあね」と
大声で答えたあとは
また髭剃りの音に変わる
あきらめて寝室のドアを閉め
台所に向かう

今から本当に出て行くのだろうか
今夜は戻ってこないのか
行く先はどこで
数日経てば戻ってくるのだろうか

廊下に置かれたスポーツバッグ
これだけなら
そう長くも家を空けられないだろう
それともこの中には
通帳やらパスポートやら
貴重品は全部入っていて
残された服やCDは
もうどうでもいいのだろうか

大切な洋服もCDも
また買いなおせばいい
何年一緒に暮らそうと
そんなふうに
ふと席を立って
簡単に
立ち去っていけるものなのだ

そんなことを考えながら
乾燥わかめの封を切る
最近繊維不足なので
多めに戻しシラスと混ぜて
甘くした酢をかける

気がつくと
髭剃りの音はとっくにやんでいた
手を止め
静かな家の中で
じっと耳を澄ます

Wednesday 3 November 2010

春を祈る

朝カーテンの向こうから
薄明かりが射していることに気づく
窓を開けると
空気が少しいいにおいがした

まだ弱々しい欧州の光に誘われて
長靴を履き外にでる
りんごのつぼみは膨らんでいないものの
足元に
水仙の芽を見つける

そこにはまだ何一つ色が無い
伸びた芝は泥にまみれ
長靴の下で
ぐちゃぐちゃと醜い音を立てる
畑は雑草に覆われ
収穫されなかったにんじんが
泥の中で腐り始めている

そのとき草の中に
小さく赤いものを見つける
腰をかがめ覗き込むと
てんとう虫だった

思わず手を伸ばしかけ
また引っ込める
この寒さの中で本当に生きているのだろうかと
急に怖くなる

「飛びますように」
そう短くつぶやく
まるでその薄い翼が
春を連れてくることができるかのように
ひっそりと祈る
泥の中に膝をつき
同じ言葉を何度も真摯に繰り返す

50Kクロスカントリースキー

皆が滑り抜けて行ったあとをたどり
木立の中を行く
リズムを取って息をしながら
白い坂を上る

下りではカーブに向かう
体重を移動させ
スキーを踏みしめるようにして
曲がりきる

白い静寂の向こうから
遠くの歓声が聞こえてくる
どこかの国の旗が振られている
先頭がゴールして
もうどれくらい経つのだろうか
それでも観衆は
まだレースを見守っている
最後の選手が戻ってくるまで
手に握ったカラフルな旗を振り
ベルを鳴らして
声を上げる

あと500メートル
重い足を一歩ずつ持ち上げ
雪に突き刺したスティックに体重をかけ
ゴールに向かう

肺はパンク寸前
心臓を極限まで打たせながら
最後のスキーヤーは
フィニッシュラインを切る
顔をぐちゃぐちゃにして
両手を挙げて
レースを終える

雪の中に倒れこみながら
50キロ前を思い出している
カウベルはなり続く
白い風景がカラフルに変わる

競泳の朝

3月の日曜の早朝
フロンドガラスの凍った車の
エンジンをかける

まだ対向車の一台も無いまっさらな道を
低い光を浴びながら
遠くまで車を走らせる

固く張りついた草原の霜は
弱々しい太陽の光を浴び
しっとりと薄いもやを立ち上げる
サングラスをしっかりかけ
東に向かい
ハンドルを固く握る

隣に座る娘は
水着とゴーグルの入ったかばんをひざに抱き
遠くの丘を見つめている

あと10分で
競技会のプールに着く

プールサイドまではついて行こう
そこで私はバイバイと言い
水際を離れ
観衆の中に席を取る

たった一人であなたは飛び込み台に向かう
キャップを調節しゴーグルを確かめる
体をかがめ
腕をまっすぐに伸ばし
スタートの合図に耳をすませる

でもまだ今は
ラジオから低く流れるポップソングを聴きながら
外の景色を見つめている
ぼんやりと窓に頭をもたれされ
かばんの取っ手をもてあそんでいる

あなたは大丈夫

機は熟し
しっかりと準備ができていることを
体の隅々まで感じながら
身動きせず
朝の光景を見つめている

Monday 1 November 2010

G先生の自殺

G先生が自殺した翌日
子供たちは学校に行く
何度も親を振り返り
手を振って教室に消えていく


G先生が自殺した翌日
親たちは子供を学校に連れてくる
笑って子供を見送っては
校門でひそひそと囁きあう


G先生が自殺した翌日
先生たちは早く出勤する
職員室での会合の後
誰もいない教室で
教材をもう一度確かめる


出席が取られ
給食費が集められる
教科書を広げ誰かがそれを読み始めると
教室は静かになる


昨日まで普通だったものを
珍しいものを眺めるように
一つ一つ指で取り上げては
積み木を積んでいく
退屈で整然とした詳細を
慣れない手つきで不器用に集めなおす


休み時間が来ると
子供たちはいつものようにざわざわと
話をしながら校庭に出る
誰かが倒した椅子がひとつ
床に転がっている


子供達がいなくなると
教頭先生は数秒壁に眼をやる
そしてほっとしたように
歩いて
椅子を拾い上げる


暗く暗く暗く
冷たい場所では
G先生が梁からぶら下がっている
誰もまだ知らない数時間
車の音も
庭の鳥の声も届かない
空気のしんとした闇の中で
静かに
静かに
静かに
先生は揺れている